能代市旧料亭金勇

わたしの金勇物語

往時の金勇の思い出を記録として保存するとともに広く紹介することを目的とし、金勇の料亭時代のエピソードを募集しました。
ご応募いただいた作品を紹介します。
■金勇さんと社長の思い出
私は高校を卒業して地元の会社に就職しました。事務所には、女の先輩と男の人四人がいて、社長は週に二日か三日しか出社せず、短時間しかいませんでした。社長が来ると、みんな「社長が来た来た」と言って玄関まで出迎え、履物をそろえました。私は、社長にお茶を出す係でした。
 
ある時専務から、社長が金勇さんにいるので、封筒に入ったお金を届けるように言われ、バスに乗り金勇さんに行きました。玄関で番頭さんに、「社長に渡してください」と頼んだら、「まず上がってください」と言われました。廊下を中ほどまで進んだ右の方に部屋があり、また奥の方の部屋に通されました。
 
社長は、私服を着て床の間を背に座っていて、両側にはあでやかな着物を着た芸者さんが二人いました。テーブルの上には、お酒や料理がありました。 社長は私に「よく来た」と言って手をたたいたら、女中さんがきました。社長さんは、「この子に何か飲み物を」と頼んでくれました。
 
金勇さんの展示会、イベント、グループの食事会で何回も利用していますが、その都度この部屋であったことを思い出します。
 
社長に渡した封筒の中の金額はいくらだったのか、会社のお金だったのか、社長個人のお金だったのか定かではありません。
 
なお、私の姉妹と従兄妹二人、私の娘も金勇さんの二階の大広間で結婚式と披露宴を行いました。姉妹、従兄妹までは座布団に座りました。娘のときは、テーブルと椅子式でした。
 
長い間お世話になり、ありがとうございました。
 
(能代市 松田 眞紀子)

■大広間の思い出
 
 
金勇は、木都能代を代表する建築物であり料亭でもあったわけですが、私にとっては結婚式を挙げた所として忘れ得ぬ場所です。
 
昭和六十二年の霜月も末、時雨模様の随分寒い日だったと記憶しています。確か一階にあった式場で神式の式を挙げました。神主さんに横に移動するという意味で「横に歩いてください」と言われ、真に受けた私はカニ歩きをしてしまいました。今でも妻に笑われています。神主は隣の八幡神社渟城宮司さんでした。引き続き披露宴は二階大広間で行いました。天然秋田杉の天井で、五羽の鶴が舞う大きな緞帳の舞台を備えた広間です。出席者は百八十九名。当時の能代としては平均的な規模だったと思います。舞台があると言うことで披露宴はさながら出し物大会のようでした。新郎新婦の職場、趣味で入っていたバレーボールなどのサークル、親戚の叔父さんなど次から次へと歌に踊りにコントにと新郎新婦そっちのけで大騒ぎでした。その中で記憶に鮮明なのが仲人を引き受けてくださった小川浩平先生の謡曲「高砂」です。私が「座布団を用意しますか」と聞いたら「落語でない」と叱られ?ました。あの謡曲の時だけ一堂シーンとなりました。
 
その後まもなく私は、能代一中勤務となり、思い出すのは毎年の卒業祝賀会です。卒業祝賀会は「金勇大広間」と決まっていました。二百人ぐらいの宴会だったと思います。厳かな卒業式から一転、大いに盛り上がったものでした。
 
結婚式を挙げたためでしょうか。私は金勇に行っても靴の番号札をもらったことがありませんでした。 下足番の男性従業員が顔を覚えていてくれて、帰りには間違いなく自分の靴が出てきました。
 
公私に渡ってお世話になった「金勇」です。料亭としての使命を終え、形を変えても次代に伝えていって欲しい郷土の遺産だと思っています。
 
(八峰町 近藤 正実)

 
■金勇の思い出
昨年、長年勤務した職場を定年退職することができました。今は場所が変わりましたが、元は柳町だったため、一年の締めくくりである忘年会は金勇での隔年開催でした。職員数も多く、初めて参加した忘年会は着物姿の職員もいて華やかでした。金勇の大広間は、木都能代を象徴する歴史が感じられる場所でした。 初めて入ったあの感動は忘れることができません。その大広間の舞台では余興が行われ、盃を交わしながら一年を振り返り、職場の人たちと賑やかに楽しく笑って、語り合いました。 その光景は今でも目に焼き付いています。私にとっての金勇は、忘年会での記憶しかありませんが、建築様式から見ても当時の能代繁栄の象徴であったと思います。
 
日本海中部地震後は、金勇での忘年会は開催されなくなってしまいましたが、格式ある金勇でまた開催することができれば最高だろうなあと思っています。
 
コンクリートで囲まれた近代建築にはない日本人の「心」があるようで忘れられない思い出です。
 
最近では、中に入ることもなくなりましたが、今でも金勇の近くを通るとあの頃の賑やかな忘年会での余興、職員同士の楽しいふれあい、会話、笑顔がよみがえってきます。
 
私にとって金勇は、若い頃の古き良き思い出の場所です。
 
(能代市 今井 美津子)

■今に伝わる息吹、その伝統
 
京都生まれ京都育ちの私を、この「東洋一の木都」能代に繋いでくれたのは大叔父でした。
 
増井正一(祖母の弟)は大東亜戦争末期、能代の代表的建物「旧料亭金勇」様で何度も寝起きしたようです。当時正一は、陸軍特別攻撃隊「振武隊」の一員としてこの地に居りました。今の能代西高校辺りに旧陸軍東雲飛行場があり、金勇様も徴用により宿舎として使用されており、兵は米代川を渡り日々飛行場に出かけ航空訓練等に励んでいたそうです。特攻隊の訓練は激しいもので、地上に直径十メートル程の円を描き、その円または建物を敵艦に見立てて急降下を繰り返します。たとえ技術が優れた操縦者であっても、その日の体調や一瞬の判断の遅れによってはそのまま地上や建物に激突してしまうというもので、実際沖縄や南方に飛び立つ前に、半数以上が事故で殉職されたとも聞いています。
 
昭和20年6月13日、東雲飛行場でも大きな事故が起き、同乗していた正一も機体と共にピスト(指揮所)に激突、合計八名が亡くなるという大事故でした。私も子供の頃からその話は聞いていましたが、五年前、仕事(能楽公演)で偶然にも三種町の金岡小学校に来ることがあり、能代に足を延ばす中で、70年間(当時)毎年弔って下さってました延命寺様も知ることになりました。
 
六歳まで正一と一緒に住んだことのあった母も、今年五年越しの願いが叶い能代に来ることができ、事前に調べる中で金勇様とのご縁も知ることになりました。当時、将校は一階で、下士官は二階大広間で寝起きしていたようですが、正一もこの天井を見て眠り、かの階段を下り、隣の八幡神社にも祈願に行っただろうと思うと、母共々感慨は深く、感謝が止まることはありません。
 
全国民と共に金勇様も国家の一大事に大きな使命を果たされたのかと思います。能代の代表的建物として、その歴史がこれからも永く伝わって頂きたいと願っております。
 
(京都市 増井 保彦)

■娘の結婚式
 
平成17(2005)年2月19日、娘がここで結婚披露宴を挙げた。それに先立つ1月、上げ汐の間で結納。さらにその前に新郎の家族打ち揃って、私たち夫婦も同行して金勇を見学。永年東京で大工の棟梁であった父親が、一階中広間の天井を見て「これはすごい。」と絶句。次に大広間に入ったとたんに「ここで式をやる。」と決めぜりふ。材木や家屋の目利きの元棟梁が絶賛し、歴史的価値は誰もが認める「金勇」なので嫁にやる当方は文句なし。これまでも祖母や父の葬式をあげたり、ふだん何かにつけて利用したりしている、料理には必ずふかひれスープをつけてもらうのが私には楽しみだった。
 
さて、娘の挙式で思い出深いことは、若い二人が協力しての初仕事、この式を企画したことである。二人で秋田市のイベント会社に相談したところ、女性社長が早速金勇を見に来て、木都能代の遺産として豪華絢爛、歴史が香る雰囲気に感動し、計画立案に意欲満々。式の満足はもちろん、金勇の良さを来客にアピールできる披露宴にと―。
 
音響セットも大がかり。舞台の前にスクリーンを張って新郎新婦のプレゼン。柱一本一本に一輪挿し。季節柄、寒さしのぎに膝掛けを用意する用意する心遣いがうれしい。舞台上に柔道畳を敷いて投げの形、会場中央の緋毛せんでは柔の形を演舞して柔道を習っている子供たちが場を盛り上げてくれた。余興のトリは新郎側親戚総出演、当時流行していたマツケンサンバを衣装も鮮やかににぎやかに踊ってくれるなど新カップル誕生を大いに祝福した。あれから16年、今では三人の子育て奮闘中。
 
イベント会社が金勇で結婚式を企画したのは初めての試みとのこと。相談してよかったと思う。 同時に若い人のアイディアで実現したこの式がその後の豊かな人生のスタートになったと思うとき、若い人のエネルギーが金勇の未来、能代の将来の希望の光となることは間違いないと確信している。
 
(能代市 今立 孜)

■金勇は能代の宝物
 
平成二十四年四月十六日付け「選考結果のお知らせ」
“慎重に審査した結果、金勇管理人として就業していただくことになりました。”の通知が能代市シルバー人材センターから郵送されてきました。
ここから私と金勇の関係が始まりまして、はや今年で九年となりました。
二十四年三月三十一日付けで定年退職し、これからの人生を地域貢献やボランティア活動にと考えていた時に管理人の募集に応募したのがキッカケでした。
 
管理人としての就業は二十四年十二月二十八日が最後となりましたが、金勇が能代市に寄贈され観光交流施設としてリニューアルオープンすることになり、二十五年一月二十一日からの五日間、館内備品と食器等を旧第二小学校体育館へ搬出しました。大小かなりの数で四人での作業で延べ五日間難儀したことが思い出されます。
 
平成二十五年八月に能代市総合政策課からのお願いで旧料亭金勇ガイドの会設立に向けて動き出し、数回の協議を経て九月に「能代市旧料亭金勇ボランティア連絡協議会」が設立されました。
 
その後、二十五年十月一日にプレオープンし、十二月一日から本格運用開始となりました。それから七年目、各方面の方々の協力を得ながら今日に至っておりますが、年々イベント等の利用も増え、来館者も年間二万五千人に達するなど、今や能代市における一大観光施設となっております。
 
来館者も個人から大型バスでの多数の来館もありで、私たちボランティアとしてのガイド案内も年々増えてきております。これまでもガイド研修を重ねてきておりますが、今年も研鑽を積み重ね全国からおいでになる方々へ金勇の魅力を伝え続けていければと思っております。
 
いつも最後に一言“金勇は能代の宝物です”。
 
(能代市 工藤 直樹)

■金勇とわたし
昭和56年、地元で就職することができました。以来、幾度となく金勇の門をくぐる機会がありました。初めて利用させてもらった時、職場の先輩が教えてくれたことがあります。 それは、「金勇の部屋に入ったら、まず庭の風情、季節を愛でること。席に着いたら天井を見上げ褒めること。そして料理が出されたら、器を鑑賞すること」ということでした。「社会人とは、こんな大人になることか」と、妙に感心したことを憶えています。
 
その後、人生の節目節目をこの金勇で迎えました。職場の歓送迎会や忘年会、友人の結婚披露宴、子供の卒業祝賀会、厄年の同期会も行われました。金勇はハレの日の特別な場所でした。
 
料亭としての金勇は、平成20年に閉店しました。その後、四代目当主の金谷孝氏から能代市に寄贈され、平成25年からは「能代市旧料亭金勇」として、市の観光交流施設となりました。
 
私はというと、平成最後の年に長年の勤めを定年退職で終えました。日々をのんびりと過ごしているなか、金勇の施設長募集を知り、人生で初めてハローワークに足を運びました。そして運よく、令和2年5月1日付で辞令をいただき現在に至っています。 履歴書の志望の動機欄には、「能代の至宝である金勇を将来へつなげることに寄与できることは、能代に生まれ育った者としてこの上もない幸せに思います」と記しました。
 
コロナ禍の今年(令和二年)、団体の観光客は激減しました。この状況の中でこそできることはないかと模索しました。そして、金勇の良さ、魅力を地元能代の人たちに今一度深く感じ取っていただきたいと思い、新たな企画・運営に努めました。 この「わたしの金勇物語」の公募企画もその一環です。
 
金勇が、よりいっそう深く能代市民に愛される施設となることを願っています。
 
(能代市 杉山 靖広)