能代市旧料亭金勇

能代春慶常設展示

能代春慶の常設展示を行っております。能代の伝統工芸品をぜひ一度ご覧ください。

■能代春慶
秋田音頭に唄われている能代春慶は江戸時代から一子相伝の伝統技法により継承されてきた伝統工芸品です。米代川上流に産するヒバ材に、良質の国内産の生漆を ていねいに二十数回塗りこみ、木目を美しく活かした淡黄金色の塗物です。能代春慶の特色は、仕上がりの色が透明感豊かな黄色であることです。そのためヒバ の木目が自然に活かされて、時代を経るごとに金色に近くなります。茶道用にも多く用いられるのは、しっくりした優雅な色彩と、つつましく素朴な味わいにも よります。岐阜県の飛騨、茨城県の粟野とともに日本三大春慶と言われています。


(以下 秋田県文化財保護協会能代支部資料より引用)

■能代春慶とは
 よく知られている「秋田音頭」という民謡がありますが、その中で、「秋田名物、八森ハタハタ、男鹿で男鹿ブリコ、能代春慶」と謡われた秋田県の名物の塗物です。
江戸時代から続く春慶塗は、米代川上流に産するヒバ材に、良質の国内産の生漆をていねいに二十数回塗り込み、木目を美しく活かした淡黄金色の塗物です。能代春慶の特色は、仕上がりの色が透明感豊かな黄色であることです。
そのためヒバの木目が自然に活かされて、時代を経るごとに金色に近くなります。茶道用にも多く用いられるのは、しっくりとした優雅な色彩と、つつましく素朴な味わいによります。
春慶塗の製作地は、全国でも数少ないのですが、飛騨春慶と共に能代春慶が名を知られています。約三百年前に始まり、明治時代に栄えますが、石岡氏は能代港町の長者番付の行司役にランクされたり、町会議員になったりします。数回、万国博にも入賞します。
このように明治時代に繁昌した能代春慶ですが、現在では、伝統と秘法を守り続けた石岡庄寿郎家が、唯一の春慶師となっています。


■春慶塗の技法を能代にもたらした人
最初に春慶塗を能代に伝えたのは山打三九郎という人です。彼は霊元(れいげん)天皇(1663~1686)の代に能代へやってきたと云われます。飛騨・高山の工人(こうじん)として技法を身に付け、能代へ来往しています。
伝播については異説あり、徳川家康の国替令によって、佐竹義宣が常陸(ひたち)・水戸から秋田へ移封になった時、春慶塗の工人も随従してきたとする説です。ところが、水戸・粟野春慶と能代春慶が近似していないことや、むしろ、水戸・粟野春慶は角館春慶に似ています。また、寛政十二年(1800)に水戸藩主・徳川治保が「葵盆」十枚の能代春慶塗を注文しています。元祖が水戸藩であるとすれば、地場産品を上納させずに、能代春慶を所望するとはおかしなことです。
また、佐竹義宣の随従者が春慶塗をもたらしたとすれば、まず、城下の久保田に春慶塗が伝わるはずですが、安政二年(1855)、春慶塗の「相沢屋」「本庄屋」「塚本」が久保田に進出し出店しています。このことからも、久保田よりも能代に、直接春慶塗が伝わったと考えられます。
つぎに、高山藩の藩主が山形県の上ノ山藩を治めたことがありますので、上ノ山から能代に伝来されたのではないかという説がありますが、山打三九郎の方が先に能代に来ていますので、時代が合わず、この説は成り立ちません。
さらに、能代の中で、山打家と石岡家のどちらが先に技法を伝えたかということですが、宝暦六年(1756)と明和三年(1766)に、「三九郎と弟子庄九郎」が佐竹江戸上屋敷に行って、本膳の足付けをしたり、修理をしたりした、と記録に残っていますので、山打三九郎と石岡庄九郎は師弟関係にあり、山打家が先です。その後、石岡家の方が発展させ隆盛を極めたと考えられます。


・能代春慶塗の発展
まず、能代春慶塗は、寛文(1661~)・延宝(1673~)の頃に、能代に伝来しました。その後、次第に久保田藩主・佐竹氏の認めるところとなり、宝暦六年(1756)には、佐竹氏江戸上屋敷へと上納品として二一八品、明和三年は三〇〇品、天明八年は一四〇品を運び、御前などの足付けをしました。これほどの数を上納できたということは、春慶塗の製作が軌道に乗ってきたと見てよいでしょう。江戸まで駄送をしたのですから、足付だと量がかさむので、職人本人が出向いて足をつけました。前に納めた品々の修理も行いました。長い道中の末の作業ぶりや、製品の見事さや丁寧さから、後に、佐竹氏は「御用」という文字を使ってよいと認可します。久保田藩庁や能代在府屋も献上させました。
また、春慶塗の名声は、佐竹氏江戸上屋敷を訪れる各藩の大名の間に広まったことでしょう。次々に注文が来ました。徳川御三家の一つである水戸の徳川治保(はるもり)や、時の老中であった土井(肥)大炊守利厚(おおいのかみとしあつ)が能代春慶を注文してきました。全国的に知られるようになってきました。
いよいよ、三代・石岡庄九郎は、その系図の文言に「一世の栄華より子孫の安泰を計り」と記されました。中興の祖と尊敬されたのは、文化・文政期(1840~1830)のことです。藩主・佐竹氏も、次第に重用していき、御用商人としたばかりでなく、生涯三人扶持を与え、苗字帯刀を許可しました。
商工業者としての基盤も固まり、安政二年(1855)、初版が発行された「東講商人鑑(あずまこうあきんどかがみ)」には石岡庄寿郎・山打三九郎の名が登録されており、能代の廻船問屋と並んで、全国的「講」の仲間入りをしています。そして、山打家も石岡家も世襲制が確立します。記録では山打家は、明和期に三太郎が三九郎と改名し、石岡家では文化期に、庄寿(九)郎が隠居して、庄九郎が御用細工を引き継ぐことを許認されたとあります。一家相伝の形も整いました。
明治初期になると、能代には漆工が四戸、木地工が四戸と記され、春慶塗の関係業者も増えてきました。そして、明治の中期には漆師が六戸あったとあります。石岡家は万国博にも出品します。その後、大戦を経て、木地材や良質の漆の減産、化学塗料の普及などから、春慶塗を業とする家が減り、現在は石岡庄寿郎家一軒のみとなってしまいました。


・能代春慶塗と他の春慶塗との関係について
飛騨・高山春慶と能代春慶のどちらにも、紅春慶と黄春慶があります。赤みを帯びるか、黄色が強いかは、製作した季節・湿度・寒暖の差によるところが多いのです。製作の順序・手数・塗法・漆の種類はどちらも変わらないようです。違いとしては、使用する木地材として、高山春慶は檜を用い、能代春慶はヒバを用いることや、高山春慶は「へぎ目」作りが多いことです。江戸期には、能代春慶にも「へき」という表現が多く記されていますので、元は似ていたのかも知れません。また、仕上がった品の形からいえば、能代春慶には「葵盆」があるのに、高山春慶には見当たりません。「葵盆」について、その由来の調査は進んでおらず、京都の葵祭りにちなんだものとする説や、水戸・徳川家が注文してきた際、葵の御紋にちなんだとする説などがあります。
いずれにしても、飛騨・高山春慶と能代春慶とは、仕上がった製品が極似しており、高山春慶の工人山打三九郎が技法を能代にもたらしたことを裏付けているようです。
能代春慶塗は、一子相伝の秘法の故に、他地方に伝播することは少なかったのですが、それでも、津軽(青森県)藤崎町大字白土の根岸家に伝わったようです。
この白土・根岸家には、「秋田春慶之仕様」「秋田三九郎春慶塗方」という古文書が残っていて、春慶塗の仕上がり具合も似ています。
また、秋田県内への伝播として、角館・長八春慶をあげる説がありますが、仕上がり具合が全然違っていて、能代春慶からの系譜はないようです。むしろ、角館・長八春慶は、水戸・粟野春慶の系譜を引くもののようです。角館は、水戸から封入した佐竹氏の一族の佐竹北家の城下町ですので、水戸・粟野春慶とゆかりが深いと思われます。


・能代春慶塗の作り方について
まず、能代春慶は、木地の素材探しから始まります。能代春慶は米代川上流の長木沢のヒバ材を求め、自然乾燥に二年間を費やします。
充分に木地が乾燥すると、注文に応じて、膳、重、硯箱、櫛、笄などその形に木地師が製作します。それを塗師が受取り、塗り方を始めます。下塗りから仕上げまで二十四~二十七回、純漆を塗るそうです。
出来上がっても直ぐに市場に出さずに、二・三年貯蔵してから販売します。
さて、能代春慶の塗り方の技法は、一家(子)相伝となっているので、記述した秘伝書はありません。そこで、津軽(青森県)藤崎町白土根岸家に伝わる二書によって、江戸時代の製法技術をここに取り上げます。
古文書の難解度を考えて意訳文とします。
「秋田九三郎春慶塗方」には次のように記しています。
『膳や重などなんでも、下地を美しく染め、その上へ姫糊を引いて、麻の布きれで摺り、三・四度このように擦れば、光が出ます。その上、春慶漆へ「すおう」(蘇芳=豆科の落葉小高木から採る染料)を入れ、よくよくこ(濾)して塗るとよい。また、「渋地」に摺る時も、前述の糊地と同じ仕様であると心得てよい。糊地は、へらで糊を引き、布きれでふきとる。「渋」は羽毛を用いて引き、布きれで摺ると良い。』
また、「秋田春慶之仕様」には次のように記されています。
『姫糊へ「うこん」(鬱金=しょうが科の多年草。太い根茎から黄色の染料が採れる)の粉を入れて、その次に、木漆を少々入れて、よく摺りあげ、へらで引き、布きれで拭く。この際、光の出るほど、よく摺ることが大切である。もっとも、陰干しにして、三度ばかり引き、そして摺る。上塗りの際は、この糊へ漆を少々入れて、へらで引いて、布きれで拭きつつ摺ることである。ただし、「路」へ入れて、干すことはいらない。なにぶん、布きれで摺れば、光がでるものである。秋田の仕出しは皆この方法である。』
以上ですが、微細な塵跡も残さず、全面に濃淡の差がないように作ることが、特長となっています。

(以上 引用文終わり)


■能代春慶塗の現在
平成22年4月に第11代・石岡庄寿郎氏が亡くなり、能代春慶塗は途絶えた状態になっています。そのため、平成26年1月13日に能代春慶の技法再現と後継者掘り起しなどを目指した「能代春慶再現活動ワークショップ」が旧料亭金勇にて開催され、能代春慶のこれまでの歴史や技法の再現の取り組み状況などの発表を行いました。